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【アドラーを知ってから3年】目的論から理解するアドラー心理学

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アドラーの目的論について、分かっているようで分からない。「嫌われる勇気」を読んだけどアドラー心理学って難しい。アドラー心理学について理解を深めたい。アドラー心理学って矛盾していない?

そんな方向けに、3年前に当時ベストセラーだった「嫌われる勇気」を読み、はじめてアドラー心理学を知った僕がこれまで紆余曲折しながら得た解釈を「目的論」から説明させていただきます。

この記事は論理や説得力を重視しているので、わかりやすく書いたつもりですが、抽象的な説明やワードが多いです。もう少しサクッと柔らかい表現でアドラー心理学に触れたい人や、初学者の方は以下の記事を先に見ることをお勧めします。

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はじめに:アドラー心理学は僕の人生にどんな影響を与えたか

アドラー心理学を知ってから3年半以上経ちました。読んだときは何か雷にでも打たれたような衝撃を受けた覚えがあります。丁度正月に読み始めたのですが、年始早々ゆっくりすることも忘れ無我夢中で穴があくくらい、本の文字、フレーズを何度も復唱しながら読んだ覚えがあります。それくらい僕にとって「目的論」を始めとしたアドラーの哲学は新鮮で強烈なものだったのです。

それ以降、「分かったようで分からない」アドラー心理学に魅了されつつ、翻弄され、何度もアドラー心理学に辟易したこともありました。というのもこの3年半は短いようで、僕は仕事でも人間関係でも悩みや迷いを抱え自分の人生について決断した時期でもありました。

アドラーを意識することで、普段の生活・仕事が空回りし、心身ともに疲れてしまうこともありました。アドラー哲学が机上の空論、理想論のように感じられてしまい、アドラー哲学を忘れて実生活に集中しようとしました。それでも、ふとしたときに本に出てきたひとつひとつの事柄が、自分の中で「ストン」と腑に落ちる経験があったのです。

青年:厳しい。先生の哲学は、あまりにも厳しい!

哲人:たしかに劇薬かもしれません。  「嫌われる勇気」より

アドラー心理学は劇薬です。なぜ劇薬なのか、アドラー心理学を知れば納得するかもしれません。しかし僕は「アドラー心理学と向き合う」ことは「自分の人生と向き合う」ことだと考えます。だからこそ、「劇薬」なのでしょう。これまで何度もアドラー哲学に挫折し嫌になった僕ですが、はっきり言えることがあります。

自分の人生に一番影響を与えた本は「嫌われる勇気」である
アドラー心理学を知ってしまったことで僕は否応がなしに「自分の人生」に向き合い、生きることになりました。

アドラー心理学は「実践的」「合理的」「論理的」な学問

「哲学」「心理学」と言うと、何か専門家や哲学者の為の学問のような、机上の議論のような受け取り方をしてしまいます。しかし、アドラー心理学は実践して初めて意味を成す学問です。アドラー心理学は、それぞれの概念がきちんと体系的に結びついており、人が「幸せ」を掴むために必要な論理が織り込まれています。抽象的ですこし取っつきづらいキーワードが多いですが、それは論理としてどんな人にでも適用できるものだからです。それぞれの人が自分の人生と向き合う事で、はじめてそれが具体化され、身につけることができるのです。

アドラー心理学を知らないから幸せになれないというわけではありません。例えて言うなら、スポーツをするときに仮説や理論に基づいて実践することで、技術を伸ばすとともに、理論を成熟させていくことに似ている気がします。「人生を幸せに生きる」ためにどんな人でも必ずぶつかる問題に対して、極めて論理的なソリューションを体系化したものがアドラー心理学ではないかと思います。

アドラー心理学は難しい

哲人:アドラー心理学をほんとうに理解して、生き方まで変わるようになるには、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるとさえ、いわれています。  「嫌われる勇気」より

この言葉をそのまま受け取ると、僕の場合はアドラーを知ったのが27歳の時なので、ほんとうに理解できる頃には40を過ぎているってことですね。そんなに先かよって思うかもしれませんが、それくらいアドラー心理学は難しいです。アドラー心理学が難しいと考える理由をいくつかあげてみます。

  • 「目的論」が難しい。
  • 「他者との課題の分離」が難しい。
  • 「他者への関心」が難しい。
  • 「共同体感覚」が難しい。
  • 実践することが難しい。

これらの概念の難しさは、容易に「自己矛盾」「偏った解釈」に陥りやすいことです。例えば「他者への課題の分離」は誤った解釈をすると「他者への無関心」あるいは「自己中心的行動」につながります。「他者への関心」の曲解は「他者の目を気にしすぎる」「自己犠牲」にもなり得ます。アドラー心理学の各概念は一見それぞれが矛盾しているように見えますが、実際はお互いが有機的につながっています。このあたりについて、本記事を読み進めてもらい理解の足しにしてもらえれば幸甚です。

そして、もっとも難しいのは実践することです。前説でスポーツになぞらえたように、理論だけ分かったつもりになってもそれが実際にできることは別です。アドラーは実践の学問です。アドラー自身がアドラー心理学が「学問」を逸脱して人々のコモンセンス(共通感覚)になることを望んでいるように、それを感覚として身につけて初めて意味を成すのです。

少し長くなりますが、ひとつひとつの概念を見ていきましょう。

目的論とは何なのか

目的論自体はアドラー心理学より前に、ギリシア哲学の頃から出てきている概念ですが、アドラー心理学の大前提とも言える考え方です。これを理解しなければアドラー心理学を理解することはできません。僕はアドラー心理学を初めて読んだ時から、この「目的論」を主軸に「自分が何を目的としているのか」「他者が何を目的にしているのか」考えるようになりました。

哲人:あなたは「怒りに駆られて、大声を出した」のではない。ひとえに「大声を出すために怒った」のです。

哲人:いまのあなたが不幸なのは自らの手で「不幸であること」を選んだからなのです。「嫌われる勇気」より

これらの考え方は簡単には受け入れがたいものです。なぜなら常識的に言えば僕らはこれまで「原因論」に基づいて生きてきたからです。過去の「原因」によって「現在」が規定される、それが当然のように刷り込まれてきました。例えば日常生活において、イライラすることが起きたとしましょう。具体的には、あなたが列で順番を待っている時に、前の人の行動がとてもゆっくりで時間がかかっているとします。いつものあなたなら特に気にならないかもしれませんが、このときは急ぎの要件があって本当に急いでいます。このときあなたは「怒り」ます。これは、「原因論」に基づくと、「前の人が遅いせいで自分がイライラさせられた」と解釈することができます。しかし「目的論」に基づくと「自分は前の人が「遅い」という誤った行動を正すために「怒り」という感情を捏造し、屈服させようとしている」と解釈できます。実際に相手を注意したり攻撃するような行動はとらないかもしれません。しかし、あなたが「怒り」を持った時点でそうした行動を起こすための準備をしていると言えるのです。

「目的論」は受け入れがたい考え方かもしれませんが、これは極めて「論理的」「合理的」な考え方です。さきほどの例では、「原因論」で考えると「自分」は「列の前にいる遅い人」のせいで怒りを持ってしまったので、この「怒り」を変えることはできません。しかし「目的論」で考えた場合、自分の「目的」を変えると「怒り」を捏造することはなくなります。例えば「列に並ぶと時間がないので別の手段をとる」「電話をして遅れる旨を伝える」「そもそも何故急いでいるのか、その理由を取り除く」というように、ケースバイケースになりますが別の選択肢を前向きに考えることができます。それに反して、実際には多くの人が「他者によって自分の感情を逆撫でされた」「怒りが湧いてきた」と考え、「自分の目的」に向き合えていないのです。

哲人:われわれは自由を選びながら、なおかつ幸福を目指す存在なのです。「嫌われる勇気」より

「アドラー心理学は人生を自らの手で「自由」に「幸せ」になるための学問です。そのために、自分を変えることのできる「目的論」は必要不可欠な概念です。「原因論」は自分以外の存在によって自分の人生が決定されてしまい、不自由ですが、「目的論」は自分の「目的」によって自分自身の人生を「自由」に決定することができるのです。

もしかしたら、「相手の行動が間違っているのに、相手を正すことの何がいけないんだ」、そう考える人もいらっしゃるかもしれません。「なぜ怒りを以って相手を屈服させるべきではないのか」「なぜ相手が間違っていると考えてはいけないのか」それを論理として理解していないと、人はこれからも「怒り」を捏造し続けます。引き続き読み進めてください。

なぜ人は「偽りの優越感」を得ようとするのか

人は誰しも劣等感を持ち、優越性を追求する存在である

前述した「怒りの捏造」について、なぜ人は怒りを捏造して相手を屈服させようとするのでしょうか。それは人は誰しも「優越性」を求める存在だからです。

哲人:まず、人は無力な存在としてこの世に生を受けます。そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。「嫌われる勇気」より

誰しも「今の自分にはできないこと」がたくさんあるでしょう。例えば、「今よりも仕事ができるようになりたい。」「今よりもギターを弾けるようになりたい」「今よりもわかりやすい文章をかけるようになりたい」様々にあると思います。それは言い換えれば「理想の自分」に対する「劣等感」と言えます。そういった場合、人は「理想の自分」に近づくために何か行動を起こすのです。

つまり、人は常に「優越性」を求めて進んでいると考えることができます。 大事なのは「劣等感」を持つこと、「優越性の追求」をすることは悪いことではなく正常な状態であるということです。なぜなら「劣等感」「優越性の追求」によって人は努力し成長するからです。

コンプレックスの状態になることが問題

しかしこれが「劣等コンプレックス」、「優越コンプレックス」になった場合、問題となります。

「コンプレックス」とは 本来の意味では「複雑に絡み合った状態」をあらわしています。つまり、「劣等コンプレックス」「優越コンプレックス」とは劣等や優劣における誤った心理状態をあらわしています。「劣等コンプレックス」の具体的な例として、「私は学歴が低いから、何をやってもダメだ」「自分は見た目が悪いから何をやってもダメだ」といった考え方をすることが挙げられます。これは言い換えれば「学歴が低くなければ」「見た目が悪くなければ」自分は成功できると言っていることになります。この人たちの「目的」は、「努力したくない」「前に進みたくない」ということになります。

哲人:アドラーは「劣等感を長く持ち続けることに我慢できる人は誰もいない」「嫌われる勇気」より

劣等コンプレックスを抱えた人は自ら努力しないので「劣等感」を抱えたまま生きることになります。上記の哲人の言葉の通り、誰も劣等感を持ち続けることを我慢できません。そうすると「劣等感」を解消するために彼らは何をするでしょうか?答えは簡単です。「偽りの優越感」を得ようとするのです。この心理状態を「優越コンプレックス」と呼びます。優越コンプレックスの例を書きます。

  • 自分の不幸話を言いふらし、相手の同情を買おうとする
  • 自分の不幸を親のせいにして他人の同情や関心を買おうとする
  • 自分の私生活や実績について嘘をつく
  • 自分の手柄や過去の経歴をことさら自慢しようとする
  • 相手を屈服させる、支配する

いかがでしょうか。ポイントとして、これらのことは「自らが努力して成長する」ことではなく、「他者と上下関係をつくる」あるいは「他者に承認してもらう」ことで「劣等感」を解消しようとしているのです。前者は自分の行動次第ですが、後者は他者に依存しています。

「怒りの捏造」は「偽りの優越感」を得るためである

ここまでくると、話が冒頭につながりますよね。そうです、相手を屈服させる「怒り」は上記で触れた「劣等感」を解消する安易な手段だったのです。誰しも「努力したくない」「前に進むのが怖い」ことはあります。しかし、その勇気がないから前に進むことをやめ「偽りの優越感」を得ようとする状態こそ、「劣等コンプレックス」「優越コンプレックス」であり、「怒りの捏造」もまたそのような状態のひとつであると言えます。

なぜ、怒りを以って相手を屈服させてはいけないのか?それは、相手を屈服させることで「劣等感」を解消することが「安直な優越性の追求」だからです。なるほど、ちゃんと論理的に帰結してします。 それじゃあ、正しい「優越性の追求」とは何でしょうか。

競争と承認欲求を捨てて、真の「優越性の追求」をする

競争と承認欲求について

人は何故競争するでしょうか。それは、「他者と上下関係をつくる」あるいは「他者に承認してもらう」ためです。つまり上でも説明したように、相手より自分が上の立場であることを示したり、他者の承認を得ることで「劣等感」を解消しようとするからです。

アドラー心理学では、「競争」「承認欲求」を否定しています。なぜなら、人と競争・比較されることも、他者に承認されることも、「自由」ではないからです。他人との競争に勝たなければ、あなたは認められない。勝ったとしてもいつか負けるかもしれない。他者が承認してくれるかどうかは他者次第。つまり「劣等感の解消は他人次第」ということになります。アドラー心理学は「自由」な「幸福」を求めるので、「競争」「承認欲求」は認めません。

優越性の追求は主観によって行う

それでは、「劣等感」を解消するためにはどうすればいいのでしょうか。

青年:人生は競争ではない、と?

哲人:ええ、誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。 「嫌われる勇気」より

これはつまり、「他者との競争」あるいは「他者との比較」ではなく、「理想の自分と今の自分の比較」によって、自分の進むべき道を決め前に進むことです。それはあなたが自分自身で「目的」を決めて「自由」に前に進むということです。 

しかし、多くの場面で人は自分自身の 「目的」を見失います。それは僕たちは対人関係の中で生きているからです。対人関係の中で「自分の課題」と「他者の課題」を混同して自分を見失うのです。「自身の課題」に向き合い幸福となる為に、「課題の分離」を行うことが対人関係のスタート地点となります。

他者との「課題の分離」について

アドラー心理学でも難しい「課題の分離」ですが、ここまで出てきた論理で説明します。僕らは誰しも「劣等感」を抱え「優越性を追求」する存在です。それは自分自身で「理想の自分」を主観的に見つけ、「今の自分」と「理想の自分」を比較し、努力することで追求するのが正しい姿です。ここまではいいですよね。そのとき、自分が「理想の自分」に向かって前に進んでいるとき、それについて「他人が承認するか否か」は「他人の課題」であり、自分が踏み込むべきところではありません。

具体的に説明しましょう。例えばあなたが将来芸能人になるのが夢だとして、それを両親は全く承認しないかもしれません。しかし、最終的に芸能人を目指すためにどのような行動をするかはあなたの課題です。「両親が認めてくれないから芸能人になれなかった」「自分は両親のせいで夢を諦めて不幸になった」というのは課題が分離できていません。なぜならその時のあなたの真の「 目的」は「自らの努力によって芸能人になること」から逃げること、そして「両親が認めてくれさえすれば、自分は夢を叶えることができたはず」あるいは「両親に認められなかった可哀想な自分」を主張することで周りから注目を集め「偽りの優越感」を得ることだからです。

本当に芸能人を目指すという「目的」があり、そのためにまず何をすべきかについてあなた自身の課題だと捉えた時、「両親に自分の思いを全部伝える。認めてもらえなければ自立してアルバイトで生計を立てながら芸能界を目指す」といった決意をするはずです。その結果両親があなたを承認するかどうかは「両親の課題」であり、あなたが最終的に踏み込むべきところではありません。裏を返せば、「あなたの課題」にはどんなに関係が近い両親でも最終的には踏み込ませてはいけないのです。

哲人:すべての悩みは「対人関係の悩み」である

哲人:およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことーーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーーによって引き起こされます。「嫌われる勇気」より

このように、「課題の分離」によって対人関係の悩みやトラブルは激減することができます。上記の例で言えば、あなたは「なぜ両親は自分を認めてくれないのか」について悩む必要がなくなるということです。勘違いしないでほしいのは「両親が自分を認めるか否か」についてあなたに「無関心」になれ、ということではありません。そのような「他人なんて関係ない」考え方になると「他者に無関心」な生き方になってしまうので注意してください。(ここがアドラー心理学でも誤解されがちな非常に難しいところなので後半で説明します。)ここで言っているのは、「最終的には両親の課題」という切り分けであり、それがきちんと出来ていればあなたは「自分の課題」に集中でき、悩む必要性などそもそも感じなくなるということです。

一旦立ち止まって考えてみましょう

いかがでしょうか。ここまでの話を実践することによって、自身の「優越性の追求」という「目的」とそのための課題に集中し、「他者の課題」と切り分けることで対人関係の悩みが解消されます。しかし、これはスタート地点に過ぎません。僕自身、他者との課題の分離によって多くの悩みを解消することができたと感じたのですが、しかし、何かが足りないな、と思うところがありました。

そもそも「優越性の追求」とは何を目指すべきなのでしょうか。それがないと、悩みがなくなったとしても自身の「目的」がわからなくなります。具体的にはこの後説明しますが、それは「他者関心」から始まり「他者貢献」へと発展して、「共同体感覚」を目指すことです。この「共同体感覚」が、アドラー心理学が最終的に目指すべきものとなります。少しキーワードが堅苦しい感じになってきましたが、要は「自分の居場所づくり」だと思ってください。例を見ながら、ひとつずつ理解していきましょう。

「人生のタスク(課題)」に立ち向かうこと 

アドラーの心理学では人生で立ち向かうべき対人関係として、以下の3つのタスク(課題)を掲げています。

  • 仕事のタスク・・・仕事の対人関係
  • 交友のタスク・・・仕事ではない対人関係
  • 愛のタスク・・・・恋愛関係、親子関係

簡単に言えば、下にいうほど距離が近く関係が深いものになり、むずかしいものとなります。なぜなら関係が深くなるほどいままで許せたことが許せなくなり、相手を束縛したり支配することで相手と上下関係をつくり自身の「劣等感」を解消したり、相手か「課題の分離」ができず「不自由」を感じてしまうかもしれません。

哲人:人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができます。「嫌われる勇気」より

だからこそ、対人関係から逃れること、すなわち「人生のタスク(課題)」から逃れることをアドラー心理学では「人生の嘘」としています。つまり「自分が不幸なのは親が悪いから」「社会の仕組みが悪いから」「見た目が悪いから」「上司が悪いから」といった口実を設けて、対人関係から逃れることです。

それでは、なぜ人は対人関係から逃げて「人生のタスク」を回避してはいけないのでしょうか?

「自己受容」とは何か

「ありのままの自分」と「理想の自分」

哲人:大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである 「嫌われる勇気」より

前説した「優越性の追求」を正しく行うためには、「自己受容」の必要があります。「自己受容」とは「ありのままの自分」を受け入れることです。ここでは「ありのままの自分」、そして「理想の自分」について考えてみます。

まずは「理想の自分」についてです。例えば「将来は海外に住みたい」「結婚したい」「子供が二人ほしい」「友達と遊んで暮らしたい」「ユーチューバーになりたい」「ブログで生計を立てたい」「会社で出世にしたい」「彼女が欲しい」「お金がたくさん欲しい」「先生になりたい」などあげられます。「理想の自分」は別に今の自分とは関係なく考えて良いと思います。なぜなら「そうなりたい」というあなたの気持ちに偽りはないからです。「他者」の評価などは一切気にしないでください。後半に説明しますが、そういったものは「自分の課題」と向き合う上でバイアスとなります。

次に「ありのままの自分」です。「理想の自分」に対して「ありのままの自分」はどのような立ち位置にいるのか考えてみましょう。「スキルがない」「英語が喋れない」「学歴がない」「休みの日は何もしていない」「上司とうまくいってない」「会社にいくのが面倒だ」「プログラミングが得意」「夫婦の仲がよくない」「モテない」「体を動かすのは好き」など、様々ですね。別に悲観的にも楽観的にもなる必要はありません。要は自分の今の状態や得意・不得意を認識し、素直に受け入れれば良いのです。「善悪」ではなく、「事実」として受け入れてください。

それでは、「ありのままの自分」を「理想の自分」に近づけるにはどうしたら良いでしょうか。結論から言うとそれは「理想の自分」に対して「いま」やれることを着実にやることです。何だそんなことは当たり前じゃないか?と思ったでしょうか。しかし、当たり前にも関わらず、それができる人とできない人がいるのは何故でしょうか?大事なことは、それが能力や資質の問題ではないということです。

それは「理想の自分」に向かって努力することを単なる過程・手段ととらえているか、それ自体に意味に感じているか、の違いです。前説した通り、人は主体的に前に進むこと、「優越性を追求」することで「劣等感」を自らの手で解消する存在なのです。つまり、「優越性を追求」する行為自体が意味を成すのです。したがって、どんな人でも「前に進む」べきであり、その一歩の大きさは各々のペースで構いません。スポーツ選手でも、素人でも、練習することで上達する、優越性を追求するという意味では、全く同じ行為をしているのです。

具体例をあげます。例えば海外で働きたいなら、まずはじめの一歩として「英語を少しずつ勉強する」「海外の仕事を探してみる」「海外の家賃を調べてみる」「今の会社で何年働くか考える」「インターンに申し込んでみる」などあなたの状況を鑑みて考えることができます。あなたが将来的に本当に海外で働けるかどうかはわかりません。しかし、「海外で働く」理想の姿に向けて、一歩前を進んだ時点で、「優越性の追求」ははじまっているのです。大切なのは将来的な夢が叶うことではなくそこに向かっている「いま」なのです。

もしあなたの現状が誰もが羨む素晴らしい地位についていたり、使いきれないほどの財産を持っていたとしても、あなたが「前に進む」ことをやめたらあなたの「いま」は満たされないでしょう。散財したり、過去の栄光にすがる必要が出てきます。また、対人関係において「課題の分離」ができていないと、「自己受容」することができなくなります。

「課題の分離」をすることで自分が本当にやるべきことが見える

例えば、有名人でもいいし身の回りに自分より輝いている人がいるとします。「出世が早い人」「知識がある人」「頭がいい人」「カッコいい・可愛い人」「人気がある人」など挙げられますね。その人に対して「劣等感」を抱くかもしれません。しかし大切な事実として、論理として「他者ができること」「他者が周りに認められること」は全て「他者の課題」なので、そこに「劣等感」を感じる必要性はないのです。反対に、自分よりも世間的に評価されない人を見て「優越感」を感じることも同様です。「自分と他者」をきちんと区別しておかないと、「ありのままの自分」や、「自分の理想の姿」を正しく捉えることができません。例えば他人が「TOEICが990点」だったり、「コミュニケーション能力が高く人脈が広く、Facebookの友達が2000人いる」ことについて、それらを羨んだり意識しすぎると、まるで自分が「TOEICの点数が高くないといけない」「コミュニケーション能力が高く友達が多くないといけない」といったバイアスがかかったものの見方になってしまうのです。

僕たちは普段時間や仕事に追われ、数多くのメディアで多くの人の声や意見が入ってきますが一旦そういった雑音は無視し、「自分と向き合う時間」を持つようにしましょう。そうして、「ありのままの自分」を「事実」として受け入れ、自分が本当になりたい「理想の自分」を考えてください。そして「理想の自分」になるために少しでも前進しようすれば、「他者の課題」は気にならなくなります。もし今まで「他者の課題」に翻弄されて生きてきたと感じるならば、これからは「自分の課題」にしたがって生きていくように自分のライフスタイルを意識的に変えていく必要があります。

「他者関心」とは何か

他人と比べることなく、「ありのままの自分」「理想の自分」を考え、「自分が今やるべきこと」を考えました。しかし、「自分が今やるべきこと」がわかっても、それが他者の役に立つかどうかわかりません。例えばあなたが努力して「留学して英語を身につけた」「プレゼンスキルを身につけた」「海外の企業に入社した」としましょう。しかし、実際に会社で求められるものは「顧客からニーズを引き出し分析する能力」だったり「上司がやってほしいことを事前に準備しておく気遣い」だったり、「部署を跨って人間関係を構築できる社内調整力」等、「自分がやりたかったこと」「自分ができるようになったこと」とは違うことが多々あります。つまり、「自分ができること」と「他者が求めること」の両方をクリアして、初めて「他者の役に立つ」ことが実感できるのです。

「他者関心」とはすなわち「自分」だけでなく、他者が何を必要としているか関心を払うことです。これはあらゆる社会活動において言えます。例えば「本を書く」「ブログを書く」という行為において、好きなことを書いたとしてそれが他者が求めているかどうかは試行錯誤してみないとわかりません。あるいは夫婦、恋人関係において、「自分は見た目に自身がある」「自分は年収が高い」などの強みがあったとしても、実際に関係が上手くいかなったり、嫌われてしまうことがあります。例えば、「細やかな気遣いができない」「店員に横暴な態度を取る」「会話が噛み合わない」など理由は様々です。そういった経験を繰り返していくと、「あ、これはやっちゃダメだ」とか「ここは手伝ってあげよう」「話を聞いてあげよう」というように「相手は何を求めているのか」分かるようになります。他者が何を必要としているか、それは自分一人で生きていても分かりません。他者との関係の中で他者に関心を寄せることで、試行錯誤して理解していくことなのです。

「自己犠牲」と混同してはいけない

「他者関心」は、あくまでも「他者の役に立つ」を見つける手段にすぎません。他者が求めることについて実際に実行するかどうか、決めるのは全てあなたです。他人の期待に応え続けて肉体も精神も消耗してしまうのはただの「自己犠牲」です。人には誰しもできること、できないことがあります。努力することも含めて自分ができることをすればいいのです。忘れないで欲しいのは「あなたは一切他人の期待に応える必要はない」ことです。ここで言いたかったことは、自分が「他者の役に立つ」方法を知るために、他者に関心を払う必要があるということです。

「他者貢献」と「他者信頼」

「他者貢献」によって「自分はここに居ていい」と感じる

ここまで説明したことを合わせると、「他者貢献」は以下のようになります。

  • 「理想の自分」に対して「ありのままの自分」を受けいれる(自己受容)
  • 対人関係の中で他者が求めることに関心を払う(他者関心)
  • 「自分ができる」「他者の役に立つ」ことを実行していく(他者貢献)

この「他者貢献」こそ、アドラー心理学において人が「自由」に「幸福」を目指すための最大のキーワードになります。

人は「他者貢献」をすることで、自らの価値を実感し「自分はここにいていい」と感じます。これこそ、アドラー心理学の目指すものです。だれかに「承認される」ことでもなく「他者と比べる」ことでもなく自らの手で「他者貢献」を行い自分の居場所を獲得していくことがアドラー心理学が提唱するあるべき姿なのです。

具体例で考えましょう。あなたが「英語ができる人」だとします。憧れた海外企業に入社してみると、「英語の読み書きができる」ことだけではなく「上司や取引先企業とのコミュニケーション能力」といった能力も会社から求められます。あなたは上司のアドバイスをメモして振り返ったり、取引先企業との打ち合わせの議事録をつけて先輩に添削してもらいながら少しずつ会社の文化や上司・取引先が求めていることを理解します。ある時上司や取引先企業から感謝の言葉をもらいました。そこで初めてあなたは「この会社に自分が居て良い」と実感することができるのです。

注意したいのは、「上司があなたを承認した」からではありません。あなたは主体的に自身に足りないものを考え、他者が必要とすることを仮説として検証し、その結果「感謝の言葉」という「自身が他者の役に立っている」という確証を得たのです。もし感謝の言葉をもらえなかったとしても、あなたが自分で定義した成果をあげることができているのであれば、あなたの「目的」は達成できているのです。他者がそれを承認するかどうかは「他者の課題」です。上司に承認してもらえなければ、あなたが居場所を見つけられないのであれば、あなたの人生は「他者」に委ねられた「不自由」なものになってしまいます。しかしそれは「事実」ではなく、全てのカードはあなたが握っているのです。このように、あなたの行動やそれがもたらした結果が全く同じだったとしたとしても、それを「誰の課題」と捉えるかによって全く意味合いが異なります。明確に区別するようにしましょう。

「他者信頼」とは? 

上記では、入社した会社を「自分の居場所」とした場合です。しかし、必ずしも自分が入った会社が居場所になるとは限りませんよね。

哲人:もしあなたがその人との関係をよくしたいと思わないのなら、ハサミで断ち切ってしまってもかまわない。「嫌われる勇気」より

これは人やコミュニティ含め関係をよくしたいと思わない他者について、その関係を断ち切っても構わないということです。しかし、裏を返せばあなたはいずれ、相手と関係を築き深めていくことが必要となるのです。そこから逃げることは「人生のタスク」から逃れることになります。「他者貢献」はあなたが関係を構築し、関係を深めていくことが前提となります。

それでは、他者と関係を深めるためにどうすればいいのでしょうか?アドラー心理学では、それは「他者信頼」によって行われます。

哲人:他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。「嫌われる勇気」より

つまり「他者信頼」とは、相手がどんな行為をしようとも信じることです。これができないと、どんな相手とも関係を深くすることはできません。

仕事や浅い交友関係であれば、難しくないかも知れません。しかし、それが恋人、あるいは親子関係だったらどうでしょう。例えば、両親と進路について揉めた時、「なぜ自分のことを理解してくれないのか」悩むかも知れません。いくら説得しても納得してもらうことはできません。「親は自分のことを理解しないのは、自分が可愛くないからだ」と恨みに思うかも知れません。あるいは自分の子供が学校でいじめられて登校拒否になってしまった場合はどうでしょう。「いじめをすることが許せない」とか「担任が悪い」「学校に行かないと社会の外れものになる」等、自分のことのように悩んだり、責任の所在を求め奔走するかもしれません。

しかしアドラー心理学で考えれば、シンプルに「認めるかどうかは両親の課題」「学校にいくかどうか決めるのは子供の課題」「いじめをするかどうかは子供の課題」「どのような教育を行うかは担任の課題」なのです。子供の例で言えば、あなたは両親として子供に必要な援助はするべきでしょう。しかし、最終的にいじめをする相手や学校とどう向き合うか決めるのは子供です。人として冷たい、と感じるかも知れませんが、たとえ親子であろうと、他者の課題には踏み込んではいけません。子供だったとしても自ら人生を選択して前に進む機会を奪っていけないのです。たとえ子供が「学校にいかない」選択をとったとしても、あなたは子供を無条件に信じるべきなのです。

もし、こどもの課題にあなたが介入したとすれば、あなたと子供は「対等」ではなくなります。なぜならこどもの課題に介入すると言うことは、あなたはこどもより「自分が正しい」と考えているからです。これまでの人生経験の長さの違いはあるでしょう。しかし、自分自身の正解というものは自分の経験や生きてきた文脈と時間をかけて向き合うことでしか導くことはできません。もしあなたがこどもの課題に介入し、こどもの「自身と向き合う時間」を奪ったのならば、子供は「自分の人生」ではなく「あなたの承認」が必要な人生を生き、人生の責任を両親に押し付けるライフスタイルを選択することになります。あなたがしようとしていることは本当に「こどもの人生」の為でしょうか。自分が「こどもの人生」をコントロールすることで支配し、自分の劣等感を解消することを「目的」としてないか、もう一度考えてみましょう。

勇気づけについて

それでは、僕たちは子供に対して何ができるのでしょうか。

身の回りの世話や、学校との相談など親としてやるべきことはありますが、ここで言いたいのは「前に進むことができなくなった他者」への援助です。相手の課題に介入せずに、「前に進む」援助をする。アドラー心理学ではこれを「勇気づけ」と呼んでいます。

哲人:人は感謝の言葉を聞いた時、自らが他者に貢献できたことを知ります。

哲人:「人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる」「嫌われる勇気」より

 「勇気づけ」は他者に感謝を伝えることです。感謝を伝えて、相手に価値があることを伝えるのです。大切なのは、「学校に行ったから」「いじめを克服できたから」「家で手伝いをしたから」ではありません。それは相手を「行為のレベル」で「評価」している、すなわち相手の見返りを要求していて「他者信頼」ができていません。そうではなく、一切の条件なく、相手に「存在のレベル」で価値があることを伝えるのです。「子供が生まれてきてくれたこと」ただそれだけでも自分達にとって価値があることを伝えます。そして、身の回りの助けやアドバイスはしつつ、最終的に「いじめ」「学校」にどう向き合うかは子供に任せるのです。その選択がどんなものであろうと、こどもと深い関係を築くためには、あなたは子供を信じなければなりません。もしかしたら「存在のレベル」で感謝することに違和感を感じるかもしれません。そんな時は、あなたの両親や家族が、もしいなくなってしまったときのことを想い浮かべてみてください。あなたが最も必要として居るのは「相手の行為」でしょうか?相手の「存在」に感謝することは、全く嘘偽りないことだとわかるはずです。

関係が近くなるほど「他者信頼」は難しいことで「勇気」が必要なことです。関係が近くなるほど、自分の事のように相手の課題に介入したくなるし、相手が自分の課題に介入してくれることを期待してしまうものです。しかし、そういった関係は一方が正しい、間違っているという上下関係を生み、「対等」ではなくなります。あなたが勇気を持って、「他者信頼」したことで関係が切れてしまうこともあるかもしれません。しかし、そんな関係は初めからたいした関係ではありません。お互いが相手の人生に依存して絡み合った足を引っ張るものです。複雑に絡んでしまった関係こそ、一度切り離してまたやり直す必要があるのです。

 

哲人:だれかが始めなければならない。他の人が協力的ではないとしても、それはあなたには関係ない。「嫌われる勇気」より

たとえ相手がどう受け取ったとしても、それは最終的には「他者の課題」です。一つ言えるのは、あなたが「人生の課題」から逃げてはいけないということです。

まとめ:アドラー心理学のゴールである「共同体感覚」について

共同体感覚について

まとめに入りましょう。

  • 自分には何ができるか、「ありのままの自分」を受け入れる(自己受容)
  • 無条件で相手を信じる「対等」な関係を築くことで関係を深める(他者信頼)
  • 他者が何を求めているのか知る(他者関心)
  • 「自分ができる」「他者の役に立つ」ことを実行する(他者貢献)

他者貢献によって「自分はここに居ていい」と感じることを、それをアドラー心理学では「共同体感覚」といいます。「共同体感覚」がアドラー心理学におけるゴールとなります。「共同体」というのは「わたしとあなた」から始まり、そこからあらゆる関係性に拡張した概念です。大切なことは、「今、目の前にある共同体」が必ずしもあなたにとっての居場所とは限らない、ということです。その共同体が居場所でないと感じるならもっと広い共同体に耳を傾けて自分の居場所を探せばいいのです。 

しかし、別の共同体を探すことは、対人関係から逃げ続けることではありません。相手と深い関係を築くことは「人生の課題」です。あなたはいずれ「勇気」を持たなければなりません。他者を無条件で信頼し、「幸せ」になる勇気を。

「いま、ここ」を生きるとは?

最後に「いま、ここ」を生きることについてです。

哲人:人生とは連続刹那なのです。「嫌われる勇気」より

人生は「いま」という瞬間の連続です。それは、「過去」や「未来」とは関係ありません。「自己受容」の説明で、「理想の自分」を考え「ありのままの自分」とのギャップを考えたとき、「今やるべきことが見えてくる」と説明しました。そうすると「理想の自分」がとても高い理想であって、将来的に叶うかどうかわからないかもしれません。しかし将来的に叶うかどうかということと、「いま、ここ」の瞬間とは論理的な関係は存在しないのです。もしあなたがそこに至る道を努力工夫しながら考え、「すこしでも前進している」と感じるならば、あなたにとっての「いま、ここ」は未来とは無関係に充実したものになるからです。反対に、過去にあなたがどんな失敗をしたとしても、逆にどんなに成功してたとしても、「いま、ここ」の瞬間は変わりません。あなたがどんな地位であろうと、「前を向いて進んでいる」のであればあなたは生き生きとしているし、「後ろを向いている」のであればあなたの「いま、ここ」は不幸でしょう。そう考えると、どちらを選択するかは明確ではないでしょうか。

無理に空元気を出したり、無鉄砲、快楽主義、刹那主義に陥れば良いということではありません。「ありのままの自分」に価値を見出し、「理想の自分」に向かって「他者貢献」という人生の目的に、着々と進む「いま、ここ」が全てだということです。

終わりに

いかがだったでしょうか。かなり長くなったと思いますが、アドラーを知ってからこの3年間、自分の人生で悩んだり前に進んだりしながら、何度も立ち返って考えた上で僕なりに得た解釈を全て書いたつもりです。

自分の手で答えを導き出していく

この記事を書いたのは、文章化することで改めてアドラー心理学を振り返るとともに、今後に活かしていきたいと思ったからです。人は自然に生きているとだんだんと惰性や慣性(カントで言えば「傾向性」ですね)で生きてしまうので、このようにある程度抽象化した表現として理解しておき、定期的に自分の人生に当てはめて立ち返ることが大事だと思います。

哲人:なぜそう答えを急ぐのです?答えとは、誰かに教えてもらうものではなく、自らの手で導き出していくべきものです。 「嫌われる勇気」より

この記事はあくまでも、僕の理解です。みなさんの「答え」とはまた異なってくるかもしれませんし、今後僕の考え方も変わってくるかもしれません。 アドラー哲学は時代や人に関係なく普遍的な対人関係のあり方を説いていますが、それを具現化したものは個人の人生の数だけあります。だからこそ、「答え」は最終的に自分の手で導かないといけないのでしょう。

この記事が少しでもみなさんの「勇気づけ」となれば幸いです。長文でしたが、お付き合い頂きありがとうございました。

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